聖典航路〜キリスト教〜『聖書黙想』
イスラム教に瞑想があるように、仏教に坐禅があるように、
キリスト教にも黙想という方法があります。
クリスチャンにとって黙想とは、
目を閉じて静かに自らの内面に深く沈思し、聖書の言葉を吟味し神と触れ合い、
信仰や生きることの意味について思いをめぐらす行為のこと。
キリスト教二千年の歴史の中で、修道院によって連綿と受け継がれてきた黙想とは何か?
他の宗教の伝統と何がどう違い、何が共通しているのか?どう実践するのか?
心を落ち着けて黙想することは、
自分を失いがちな忙しい生活の中心となるものを探求することです。
また、キリストがさまざまな人と食事を共にしたように、
今回も昼食を参加者といっしょにいただく時間を過ごしました。
ゲストにお招きした小渕さんは、各地で黙想の指導をされておられる方。
そんな小渕さんからレビューを頂きましたので、ここに許可を得て掲載します。
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先週末、招かれたので、川崎の寺院で、聖書の黙想の時を持ちました。
自分からは思いもつかなく、コンタクトもないのですが、
まじめな若者の信仰者のグループが他宗教のことも学びたいという願いに応えて、
奉仕させていただきました。
午前11から午後4時。
仏教僧侶、イスラム教徒、キリスト教徒の小さな集まりでした。
昼食の時間があったので、イエス様がしたように、共に食卓を囲んで過ごしました。
イスラムの伝統に則った内容の弁当を取り寄せ、一緒にいただきました。
内容はまったくキリスト教式でさせていただきました。
心と体を落ち着かせ、心の耳を澄ませ、聖書の短い箇所を味わい
、またここ一年の恵みの生活を各自が振り返りました。
さすが、格式と伝統のあるお寺。
山門、日本庭園、畳の間に風格を感じます。
長い間、地元の人達の苦悩、病、死別の悲しみを引受ける癒しの場となったことでしょう。
秋から冬に変わる季節の自然の中、静かに神の語りかけを待つ時間でした。
参加した皆さんの心に、果たしてどんなことが起きたでしょうか。
短い分かち合いの時間を持って静けさのうちに散会しました。